例えば、Aの人は、ある本を読みたいと思う。その時に、その本が電子書籍でしか読めないとすると、その本を読むのを諦める。
Bの人は、電子書籍を購入し、その本を読む。
Aの人は、拘りがあり、本は紙であるべきだと思う。
または、この電子化の波が気にいらない。紙の本のメリット、電子書籍のデメリットを並べて、電子書籍を否定する。
電子書籍は目に良くないなどというが、紙の本を明るいところで読むときの光の反射や、暗いところで読むときの目の健康への悪影響もある。
どちらにしても、Aの人は、その本を読みたいという本質から離れ、あらゆる条件を付加してその本質を忘れる。
Bの人は、まずその本を読みたいという本質を失わない。
まずその本を読みたいという、その原因が理念である。その読みたいという理念の本質が本物なのかどうかによって、双方の最初の導入部分から大きな違いがある。もともと、その本を読みたいという意思が、紙の本なら読むという条件付きのものであるならば、まずその理念を疑ってみるべきである。
本質に戻る
全てのこの世の現象は、その理念が本物の本質的なものかどうかによって大きな違いを生む。本当にお金が欲しいのか。本当にそこに行きたいのか。全ては、その本質的な理念が本物なのかに係っている。
本物であれば、どんなことをしても達成しようとする。
ところが、「紙の本なら読む」というような条件付きで、その達成を諦める。または、「その本を読みたい」という理念が偽物であり、それを本物だと錯覚して、その理念が目的を得て、目標を持って方法論を模索し「その本を読む」という目標を達成したとしても、理念は偽物のままであれば、その理念のまま達成されたに過ぎず、満足感も決して得ることはない。ほとんどの場合は、条件と課題に挫折し、その目的を達成できない。人生そのものも、そのような思考方式が癖になり、その結果に悩まされ続ける。たとえば、彗星を見たいが、明日の朝早いから、今しか見ることができない輝く彗星を、夜遅くであれば見ないということになる。その場合は、その彗星を見たいという理念が偽物であり、それなら彗星を見ることはない。見たとしても満足感は無い。その不満は心身に多大な影響を与える。
理念が目的を達成する。
本物であれば、その目的を達成するに過ぎない。本物の本質的な理念には条件がない。その理念は「理念を満足させる」という目的を得る。目的は目標を設定する。「理念を満足させるために、その本を読む」という目標である。その目標は机上のシミュレーションを思考として実施する。「どのようにしてその本を読むか」である。ここで、その本を読むには、電子書籍という方法しか無いのであれば、電子書籍を読むためにはどうするかという課題や、問題点を羅列し、その課題の対処方法、問題点の解決方法を繰り出し、机上のシミュレーションを展開し、課題に対処し、問題点を解決し、机上で目標を達成する。そして、電子書籍を読むための環境を整えて、電子書籍を購入するという行動を起こす。
すべての世の中の現象、すなわち、パスタを一つ作るのも同じことである。自分の心身を満足させるもの、その欲求を満たすもの、現在の状況などから、何かを食べたいと欲する。その原因にあるものが理念である。本当にそれが食べたいのなら、素直にそれを目的とする。その目的を達成するために、ランチにおいしいものを食べるという目標を持つ。その目標を机上に置き、方法論をシミュエーションする。彼氏においしいパスタ屋さんに連れて行ってもらうか、自分で作るか、体調や状況に応じて方法論を模索し、課題と問題点を解決し、その達成に行動する。
本物と偽物
書籍は紙であれ、電子書籍であれ内容は同じである。その本質的価値は失われることはない。その本質的価値を得ることを、課題や問題点によって頓挫してしまうということは、すなわち、その理念の本質が偽物であるということである。
偽物とは何か。太極思想に無極という概念がある。無極とは、この世の現象を司る太極(陰と陽の混沌とした世界=相対的世界)を生み出した源である。
無極から発せられる光は、例えると太陽の光である。太陽の光は日向において、太陽の光の本質を留める。日陰においては、影を落としその本質を留めない。その日陰が偽である。どちらも太陽の光の一部であるが、日陰にいるものは自分以外のものがわからない。逆に、日向にいるものもそうである。
本質的なものは、本物も偽物も無いし、本物で偽物でもある。だから日陰(偽)にいようが、日向(本物)にいようが、表裏一体のお互いを知ることになる。そうすると自分のいる場所が分かり、例えば、「その本を読みたい」という理念が、不安(日陰)に偏っていないか、愛(日向)に偏っていないかがわかる。
そして、「この本を読む」という行為が、そのどちらに現象を帯びようが、ただ純粋にありのままに、「その本を読みたい」という完全な本質的な理念になりうることを発見する。そこで、本当にその本を読みたいのか、それとも読みたくないのかはっきりする。無極に戻るのである。それから、本当に読みたいのなら、課題や問題に立ち向かい、達成すればいいし、読みたくないのなら止めるだけである。
「その本を読みたい」という理念が本物であれば、電子書籍のであろうが、この世のすべてを受け入れ、ただありのままに、その目的を達成できる。
本当にその本を読みたいのか。本当に彼と愛し合いたいのか。本当にその車が欲しいのか。お金が欲しいのか。結婚したいのか。その仕事をしたいのか。すべての世の現象は、陰陽を帯びている。その陰陽は無極から生まれている。その無極に立ち戻り、そこから全てを見ることを観自在という。同時に全世界の音が聞こえる。観世音という。
当社の出版は敢えて、電子書籍に限定することで、本質的な理念に対応することのできるコンテンツを世に送り出すことを目標とする。
その理念は、本を出版するというのでは無く、単に、当社の出版物を読んだ人々との普遍的な繋がりを得ることを、楽しみにしているに過ぎない。普遍性は人間を含む森羅万象との一体の理由である。
森林消費の限界
紙の書籍は、大量の森林を過激に消費し、紙の製造過程や製本印刷過程は、大量の環境を過激に汚す。人間は、電子書籍という新たな出版の道を見つけ出したにもかかわらず、人のエゴは、自らが最も楽な方法にしがみつき、紙の本に拘る。確かに、電子書籍も、電気を消費することや、その製造過程で環境を破壊する。しかし、簡単に考えても、紙の本の消費される物質量は変化することはない。紙の本がそれらの消費を軽減するために、進化する新たな方策も今のところ提示されていない。全世界の森林消費はいずれ限界を迎える。その限界は、地球全体に大きな悪影響を及ぼす。それは目に見えている。
電子書籍は、そのリーダーの製造過程において、環境に与える影響は物質量的には縮小しながら変化を続けている。少なくとも、大気を還元することができる有限な森林を消費することはない。
ただ、あるがままに本を読む。
ありとあらゆるものは、ただありのままにある。青い花は青い花である。青でないかも知れない。花でないかも知れない。
ただそれがそこに存在する。存在していないかも知れない。存在していないかも知れないが本質であろう。
その本を読みたい。本でないかも知れない。その内にある何かであろう。なにかでないかもしれない。これが本質である。
それをただ、心の底から読みたいと思う。心の底のその理由が理念である。その理念は無色であり、無極から発せられる。その光の暖かさにつられ、その本を読みたいと思ったとき、素直にその光を受け入れる。その光がかざす陰は条件である。すなわち、紙の本への拘り、電子書籍の問題点などなどである。しかし、「その本を読みたい」という理念が、人間がこの世に生まれ、また、ここまで生命をつないできた本質的な欲求であれば、その理念は無始無終、永遠不滅の欲求、すなわち純粋欲求である。本ですらないものを読みたいと思う。いや、読むということにも拘らない。ただ、感じたい。それでいい。その本質を見つめ、あらゆる人間としての行為を照らす。ただありのままに。あるがままに。あたりまえに。書籍の文字という氷山の一角から、その氷山を、そして大海を、そして森羅万象を描き出したいという、人間の普遍的欲求は、あらゆる条件に左右されない純粋な欲求である。